大判例

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東京地方裁判所 昭和27年(刑わ)1471号 判決

本籍)≪省略≫

住居

昭和五年二月二六日生

右被告人に対する騒擾助勢被告事件に付き、当裁判所は、検察官検事内堀美通彦、外村隆、武田昌造、竹村照雄、中川一、原弘、加藤泰也公判出席、審理の上左の通り判決する。

主文

被告人は、無罪

理由

第一、公訴事実

(一)  東京都における第二十三回メーデー中央大会は、十数万人参会の下に、昭和二十七年五月一日午前十時二十分頃より、新宿区明治神宮外苑において開催せられ、同日午後零時三十分頃終了し、大会参会者は、引続き東部、西部、南部、北部、中部の五群に分れて、それぞれ別経路の集団示威行進に移ったのであるが、かねてより千代田区の皇居外苑広場を暴力をもって占拠すべく企図していた日本共産党員及び一部の過激な学生、朝鮮人及び自由労務者等は、大会挙行中より参会者に対し、「人民広場へ行こう」、「人民広場を実力でかちとれ」等と呼び掛け、愈々行進が開始せられるや、前記日本共産党員、学生、朝鮮人及び自由労務者等を主体とする数千人は、千代田区の日比谷公園を解散地とする中部及び南部の行進に加わり、その大半は、各々途中隊列を紊してその先頭を奪い、或は蛇行進を行い、或は投石しつつ行進した。そのうち、中部コースを行進して来た一隊約三千人は午後二時頃同公園に到達したが、予定の解散場所たる同公園内において解散せず、口々に、「人民広場へ行こう」、「人民広場をかちとれ」等と絶叫し、スクラムを組み、日比谷公園より皇居外苑広場に向って無許可示威行進を起し、同区日比谷交叉点を強行突破し、在日米軍司令部附近に到るや、「アメ公帰れ」、「ヤンキー帰れ」等と怒号し、附近に駐車中の外国人の自動車十数台に石塊を投じ、或はプラカード、棍棒、スパナ等をもってその窓ガラスを破壊し、且つ、在日米軍司令部に投石する等暴行を逞しうして暴徒と化し、更に馬場先門入口附近において、同所を警備していた警察職員に対し、「ポリ公を叩きのめせ」、「打ち殺せ」等と叫び、或はこれに投石し、同所において、隊伍を固めて一挙に馬場先門より皇居外苑広場に突入し、たちまち二重橋前に殺到して同橋の欄干に赤旗を打立て、気勢を挙げた。このとき同広場を警備中の警視庁警察職員の一隊がこれを解散させようとしたが、暴徒はこれに応ぜず、右警察職員に対し、石塊、木片等を飛ばし、或は、プラカードの柄、竹竿、棍棒等を振って殴りかかり、又警察職員を桜田濠に突き落す等して多数の警察職員に傷害を負わせ、或は祝田町警備派出所建物を押し倒し、或は附近通行中の警視庁及び外国人等の自動車に投石する等の暴行を擅にした。一方、中部コースを行進して来た前記日本共産党員、学生、朝鮮人及び自由労務者等の残部の一隊約二千人は、午後二時四十分頃、日比谷公園桜門附近において、暴力をもって警察職員の制止を排除し、同区祝田橋に向い、同所を警備中の警察職員を棍棒、鉄製のプラカード、竹竿等をもって殴打し、或は押し、或は突く等の暴行をなし、同所を強行突破して皇居外苑広場に突入し、他方、南部コースを行進して来た日本共産党員、朝鮮人、自由労務者等数千人の一群は、午後三時頃、祝田橋より同広場に突入し、いずれも、さきに同広場に乱入した暴徒と合流、相呼応して益々その勢を加えた。これらの暴徒は、同日午後六時過頃までの間同広場及び日比谷公園並びにその周辺において、これを制止し、又は解散させようとした警察職員に対し、喊声を挙げ、石塊、空壜等を投じ、或は竹竿、棍棒、竹槍等を振ってこれを乱撃、強打し、又はこれを引き倒し、或は警察職員及び在日米軍兵士を凱旋濠に突き落した上、これに投石又は竹竿をもって突く等の暴行を加えて多数の警察職員に傷害を負わせ、更に日比谷公園附近道路に駐車中の警視庁及び外国人等の自動車十数台を転覆破壊し、又はこれに火を放って焼燬し、或は日比谷公園有楽門巡査派出所を襲撃して窓硝子多数を破壊し、或は、馬場先門より東京都庁に至る路上において、外国人の自動車十数台の窓硝子を破壊する等暴行脅迫の限りを尽し、その間、数時間に亘り、同地帯の電車、自動車等の交通をも杜絶、阻害するに至らしめて附近一帯の静謐を害し、騒擾をなしたものであるところ、右騒擾に際し、

(二)  被告人氏名不詳(昭和二十七年東京地検勾留第六一二一号推定T)は、同日午後二時三十分頃前記馬場先門より皇居外苑広場に突入した暴徒の一団に加わり、その先頭に立って二重橋前附近に殺到した上、同所においてこれを解散させようとした警視庁警察職員に殴りかかる等の暴行をなし、もって他人に率先してその勢を助けたものである。

第二、証拠の判断

右公訴事実中、第一(二)の本被告人のみにかかる公訴事実の存否の証明のために取り調べられた証拠は、

(一)  亡Aの検察官に対する昭和二七年五月二六日付供述調書(刑訴法第三二一条一項二号、三二四条一項、三二二条により)

(二)  東京都西多摩郡N村長作成の、Aが昭和三五年一月六日死亡したことを証明する昭和三五年一二月七日付戸籍抄本

(三)  東京大学文学部長辻直四郎が昭和二七年五月一四日付で杉並警察署長宛に回答した「Tが昭和二七年三月三一日付一身上の都合により退学した」旨の書面

(四)  K市役所が昭和三四年九月二八日付で東京地方検察庁宛に回答した、Tの身上調査(本籍、出生地、住所、氏名、生年月日、家族、前科)に関する書面

である。この内(二)(三)(四)は、以上の摘示により内容もほぼ明白であるから、あらためて摘示することを差し控え、残る(一)に付いていかなる供述記載となっているかを次に記載する。即ち、右供述調書中の亡Aの供述として、

一、私方家族は、私の他に妻B五十七、三男C十八年、二女D中学三年の四人暮しで畑五畝ばかりやっていますがこれはほとんど妻がやっておりCは以前は三鷹の精米業に勤めていましたが肋膜が悪くなったので四月初めにやめて今家でブラブラして居ります。

二、警察の人が来て写真を見せられましたがその写真の人で東大の学生だと言っていたTと言う人は今年四月初知った人です。

この人を知る前四月一日頃夜私方に二十三才と言っていましたがEと言う女の学生が来て

遊びに来たがおそくなって帰る事が出来ないから泊めてくれ

と言って来たのでその人を泊めた処その人は翌日から何か働く事があれば手伝うから試験休中おいてくれないかと言う話だったので丁度ジャガ芋の植付で忙しい時だったので手伝ってもらう事にしました。

この女の学生以外に試験休で遊びに来たと言う東大の男の学生が三、四人私の村の上元郷にある吉祥寺と言うお寺にF、G等と言う人が居りましたし小沢の宝勝寺にTさんが居て時々私方にも来て仕事を手伝ってくれていました。

東大の生徒はこの他にも吉祥寺に二、三人居た様でした。

三、この人達は四月十日と思いますが学校が始ると言って皆引揚げた様です。

ところがTさんだけはその後も二、三回村に来て家が借りたいとか言って部屋を探していましたがその頃はこの人達が共産党だという話しが拡まっていたので誰も貸し手がなかった様でした。

四、Tさんは四月三十日に又来ましたが丁度その日は大掃除の日だったのですがTさんは私に

どうせ用がないから手伝ってやるからおじさんは商売に行きな

と言うので私は済まないなと言って手伝を頼んで綿の外交に村を歩いたのですがその晩家に帰った処CからTさんが東大の病院に連れて行って安くレントゲンを撮ってやると言ってるがと言はれましたが私は伜によした方がよかろうと言っておきましたTさんはその晩私方に泊って翌日私は朝六時頃出ましたがその時はまだ私方に居ましたがその日東京に帰った様です。

その晩私はラジオでメーデーの騒を知りました。

五、五月三日か四日頃夕方私が家に居る時又Tさんが来ましたので私はTさんは共産党に関係していると言う話しなのでメーデーには行ったものと思ったので

ラジオで聞いたが随分ひどかったね

と話しするとTさんは

あれ程ひどくなるとは思はなかった

と返事して

あの騒で弟は怪我したが病院にかつぎ込んだ

等と話しをした上

自分も眼が痛くなって眼をつぶっている中に眼鏡を落して八百円損した

と言っていましたが前と違った眼鏡をかけていました。

Tさんは何れ詳しい話しは後ですると言って立去りましたがそれっきり私方には来ませんでした。

警察の人に大掃除の日を間違へて話しましたが今日申した事が間違いない事です。

警視庁の鑑別室で見せられた人はTさんに間違いありません。

との記載がある。なお、当裁判所のいわゆる総論(全被告人に共通する公訴事実)審理の段階で取調べられた証人Hの供述記載(昭和三三年六月三〇日の公判期日の公判調書第二四丁)として、

問 証人が、この法廷に証人として出られたいきさつですね。これは、どこから話があって出られたのですか。

答 僕の大学時代の友人で、メーデー事件の被告になっている友人がおりまして、学生時代はそんなに親しくはなかったのですが、大学を出て、あの人が、僕が二、三出版した本屋の校正のアルバイトなんかをやっていて非常に生活に困っているのですが、その友人からあの時確か見かけたから出てくれないかという話を聞いたのです。

ですから、僕の知っていることなら無論話しましょうと言って出たんです。

それが直接のきっかけだったと思います。

問 それはどなたですか。

答 T君と申します。

とある(H証人は、昭和二七年五月一日東大学生自治会の文学部の学生の一団に加わって馬場先門より皇居前広場に入り、二重橋付近に行って警官隊とデモ隊との衝突を経験し、引き返して同広場内の芝生を経て日比谷濠の土手に上り、祝田橋から新しいデモが同広場に入って来るのを見た((そのとき、大学構内で顔を見かけた友人も二、三いたように思う。また法学部の友人一人に会った。))。それを見てから楠公銅像島に移り、そこにいた東大文学部の学生友人の集まりに入って雑談の仲間に加わった。それから、第二次大衝突といわれる騒ぎに巻き込まれ、催涙ガスに遭い、逃げ出し、二重橋と反対方向にある祝田橋近くの土手の内側近くまで行ったが、途中負傷者(証人の友人の友人)の救護等に当たった。そしてその辺で妻の安否を人にたずねたり、たずねて歩き回ったりした。その後その辺にも警官隊が拳銃を構えて押し寄せて来たので逃げ出し、同広場の東南隅にある休憩設備の中庭に入ったが、そこへも警官隊が来て追い立てられ((その際年若い男性が胸部辺りから出血し死亡しているのを見た。))、両手を上げて祝田橋方に逃げ、更に妻を探しながら和田倉門方向へ進み、最後にそこから出たという経路を歩ゆんでいる旨供述していることが明白であるから、その行動の経路と時期は、検察官が本件において騒擾と主張する時期、場所の大半に及んでいるものと認められる。)。

以上に挙示した証拠を今仮りに全面的に信用したとしても、以上挙示の全証拠をもってしては、到底冒頭記載の様な騒擾助勢の訴因を認定することは不可能であるばかりでなく、騒擾に際し付和随行したものと断定することも困難であるといわなければならない(検察官は、いわゆる論告求刑の段階で、本件を付和随行に当たると主張した)。そうだとすると、仮りに、本件で検察官が騒擾と主張する点がすべて認容されたとしても、被告人を有罪とすることはできないことが明かである。よって、騒擾そのものの成否に関する判断に立ち入らないで、被告人に対しては、刑訴法第三三六条後段を適用し、無罪の言渡をする。

(なお、検察官から被告人のみにかかる公訴事実立証のため証拠調の請求のあった証拠としては、他に数点ある。それらは、すべて取調の必要を認めないものであるが、それらの内、証人として取調請求のあった二名に付いては、検察官が明かにした具体的な立証事項をここに付加記載して、取調不必要であったことを明かにして置く。証人田中昭一の立証事項は、「一、証人が築地警察署看守係として勤務中、昭和二七年五月一一日杉並警察署より移監された被疑者Tを取扱った事実。二、Tは、入房の際眼鏡を預けることを拒否し、証人に、『これは皇居前で壊されたから八百円で買ったばかりだ。』、『警察官に預けてはこわされる。』旨申し立てて争った事実」であり、証人田野倉直一の立証事項は、「証人は警官として、被告人逮捕の際差押えたメモによって被告人が西多摩郡檜原村方面で山村工作隊として活動していたことを知り、檜原村方面を捜査して被告人の止宿先のAに被告人がメーデーに参加し眼鏡をこわして買いかえたことを話したことを知った事実。被告人使用中の眼鏡を持ってその購入先を捜査したところ、阿佐ヶ谷一丁目眼鏡商Iから五月一日購入したものであることが判明した事実。」である。これら事実が仮りに全部証明され、前記採用証拠と加えて判断されたとしても、到底冒頭記載の訴因((被告人のみにかかる部分))を認定することは不可能であること、騒擾に際し付和随行したものであることの断定も不可能であることは、明かといわねばならない。)。

よって主文の通り判決する。

(裁判長裁判官 浜口清六郎 裁判官 平野太郎 裁判官 大沢竜夫)

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